国際政治学者、三浦瑠麗さんの著書【21世紀の戦争と平和】を遅ればせながら読ませていただいた。
この本のサブタイトルは「徴兵制はなぜ再び必要とされているのか」という少々刺激が強めのものになっている。
三浦さんが同書で主張しようとしたことは、徴兵制を導入することによって国民が戦地で流れる【血のコスト】を意識することで逆に戦争を遠ざけるというものだったように思う。
日本において徴兵制の導入が可能かどうかはさておき、国民が血のコストを意識して暮らすことは平和な暮らしを享受できている有り難さを感じる上でも必要だと思う。
現在、林業界の端くれに身を置きながら取材を続けている私は、同書に出てくる「兵士」という存在を「林業従事者」に置き換えて考えてしまった。
なぜなら、以前の記事でも書いたように日本において労災発生率が最も高い産業は林業で、年間では自衛隊員よりも多くの人が亡くなっているのだから…。
「少数者」で「見えにくい」存在
まず、兵士と林業従事者の共通点について見ていこう。
同書で三浦さんは、兵士の存在を「少数者」と表現している。以下、引用すると
少数者の側である兵士数十万人が全員いやだといっても、数千万人の、兵士ではない国民が「戦って来い」と命じれば、それは「民意」として民主政治においては正当性を持つということである。いくら兵士たちが「そのような意に反する戦争を戦うために兵士になったのではない」と反論しても、その都度行われる民主的な政策判断を少数者がひっくり返すことは難しい。(p.57)
日本の林業従事者数は約4万5千人(林野庁データ)でこちらも少数者。
また、現在の木材価格では補助金なしでの経営は難しく、どうしても国の政策に従わざるを得ない。国が「木材を増産せよ」という判断をすれば、そのための補助金を受けて大きな機械を導入し、増産体制を図らざるを得ない。
二つ目の共通点はその存在が「見えにくい」という点。
三浦さんは「要するに、血のコストが見えにくいのは、国民から兵士の存在が見えにくいからなのである」と指摘している。
林業従事者の存在もまた、「見えにくい」と思う。
そもそも、彼らの労働現場は主に山の中。人口が集中する都市部に山間部は少ないし、地方で暮らしていても、住宅地からは遠く離れた山の斜面で仕事をしている。
そんな中で倒れた木に激突されたり、重機で転落したりして多くの尊い命が失われている。
「血のコスト」を意識する意味とは?
冒頭でも触れたが、三浦さんは徴兵制を通じて「血のコスト」を意識することで戦火を遠ざけられるという立場で論を展開していた。
では、林業において人々が「血のコスト」を意識する意味は何だろうか?
それはやはり、林業従事者の社会的地位の向上だと思う。
その延長で自然破壊ではない、自然との調和が取れた林業が中山間地に広がれば、日本の地方はもっと豊かになれると思う。
そのためにも、どのような情報発信が可能なのか今後も考えていかなければならない。
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