神奈川県出身の僕が、高知新聞で働いた10年。そして再び神奈川県民に戻る。

挑戦記
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2021年2月末をもって、10年間勤めた高知新聞社を退職した。
4月からは神奈川県西部の山北町というところに身を置き、引き続き森林資源の活用を学んでいく。
今回の記事では、横浜市出身の僕が高知県の高知新聞に就職した経緯と10年の記者生活を振り返る。それとともに、神奈川県民に〝復帰〟するに至った心境の変化をつづる。

唯一拾ってくれたのが高知新聞

話は学生時代に遡る。

2006年4月、僕は早稲田大学教育学部に入学した。
数ある授業のなかで最も引きつけられたのが花田達朗教授の「マスコミュニケーション概論」だった。授業内容は「ジャーナリズムとは」「公共圏とは」といった小難しい内容ではあったが、花田教授の語り口と、批判的精神みたいなものが心地よかった。
そして大学3年生になると花田教授のゼミ「新聞学」を受講し、新聞記者を志すようになる。

学生時代、ラグビー部に所属していた僕は就職活動をかなり楽観的に捉えていた。
全国紙、地方紙を問わずに入社試験に臨んだが、ことごとく滑り続けた。
漠然とした「ジャーナリズム論」みたいなもので頭でっかちになっていたのが一因かもしれない。

そして最後に受験したのが高知新聞だった。
今振り返れば、高知に足を踏み入れたこともないのに無謀な挑戦だったと思う。
ただ、高知新聞を選んだのは偶然ではない

先に紹介した花田教授を通じて高知新聞の存在は知っていた。
高知県内の新聞購読者の8割超が高知新聞を購読しているという高いシェア率。
高知県警の裏金問題を告発するなどの高い取材力。
1次、2次試験が東京で受けられ、花田ゼミOBの1人が高知新聞に入社していたことも後押しした。

採用担当者も恐らく僕のことを物珍しく思ったことだろう。
学生時代にラグビーばかりしていた僕を採用してくれた会社の懐の深さも感じる。

警察回りと支局勤務で鍛えられ

2010年4月に入社してからは警察回りを2年、県西部の幡多(はた)支社で1年、県東部の室戸支局で3年、本社で司法担当2年、遊軍1年半、その後、休職という経歴をたどった。

体力的に一番しんどかったのは1年目の警察回りだ。
原付バイクで雨の日も風の日も、昼夜問わず事件事故、火事現場に向かった。
記者の仕事はよくも悪くもOJT(オンザジョブトレーニング)と言われる。
学生時代ラグビーばかりしていた僕が器用に記者の仕事をこなせるわけもなく、当時の所轄キャップにはよく怒られた。だがここで記者としての基本姿勢をたたき込まれた。

県西部の四万十市にある幡多支社は3人体制。隣町の黒潮町の担当になった。
だが、赴任直前に思わぬ事態に見舞われる。2012年3月31日、国は南海トラフ地震の最大津波高の想定を出し、黒潮町は全国最高34.4メートルの津波高が示された。
全国紙の記者が同町に駆けつけるなか、初めての行政・議会取材で右往左往した苦い思い出がある。

続いて赴任した室戸支局は1人体制。つまり、僕が自ずと支局長になる。
26才そこそこの若造が支局長として担当自治体の室戸市、東洋町の首長や議会議員と相対さなければならない。
高知新聞は若手記者に「支局長」を経験させる。若いうちに地域に放ち、地域住民に見守られながら記者として成長していく。
前にも触れたが、高知新聞のシェアは8割超。支局管内では良くも悪くも「高新さん」と認識され、気が抜けない。

その後は本社勤務にて司法担当と遊軍を経験。
遊軍時代に連載「山を、どうする?」を書いた後、2019年10月から会社の「自己研修制度」を利用し、休職することになる。
その経緯は以前の記事で紹介した↓

「山に手を加える」ということ

休職期間中は、以前幡多支社に勤務していた時に知り合ったMさんを頼って四万十市に移住し、「とりあえず1年」とお願いして「自伐型林業」について教えを請うた。

この研修が進むにつれて、「人が山に手を加える」ことについて考えずにはいられなかった。それは、どういうことか。

山から木を切り出すためには道をつける必要がある。
雨が降れば雨水がこの道を流れ、山を壊すかもしれない。また、風も入りやすくなるため木々が互いに触れて傷つき、時には折れてしまうかもしれない。
そのため雨水を流す排水処理をしたり、あまり大きな道を作らないようにしたりしなければならない。定期的な点検も必要になってくる。

つまり、「自伐型林業」のスタイルはその土地に根付いて地域の山を管理していくことが求められる。ある意味〝地縛性〟が高いとも言える。

そんな中、2020年は「コロナ禍」の社会が訪れた。
高知での暮らしは10年が過ぎ、横浜にいる両親は高齢になっていく。
親に何かあった時、すぐに駆けつけられるか。
山の仕事は危険だ。逆に自分に何かあったとき、周囲に迷惑をかけるのではないか。
このまま高知で働き続けていくべきか…。
しかし、まだ山のことについて深く学べていない…。

そこで故郷の神奈川で山をできないか?と考え、神奈川県で山の多い自治体を調べたところ県西部の山北町にたどり着いた。そこではNPO法人「共和のもり」という団体が地域の山を生かした活動に取り組んでいることを知った。その団体の代表者に関する記事も見つけて連絡を取り、2020年の夏に山北町を訪れた。

そこで「共和のもり」メンバーと酒を酌み交わしながら話をし、地域で運営しているシェアハウスに入る許可をいただいた。

会社には感謝

このような経緯をたどって2021年2月末で会社を退職。4月に無事、山北町に移り住んだ。

10年間僕を育ててくれた会社には感謝しかない。
高知県の新聞購読者の8割超が高知新聞を取っていると言っても、県人口自体が減少し新聞購読者数は減る一方。経営状況は良好とは言えない。
お世話になった会社に微力ながら僕にできることはないかと考え、ネットで見られる高知新聞の記事を紹介してPV(プレビュー)数を一つでも二つでも増やせないか、との思いに至った。

今回紹介するのは、アンパンマンの生みの親であるやなせたかしさんも高知新聞の記者だったことを振り返った記事↓

https://www.kochinews.co.jp/article/251757/

この記事の中で、やなせさんが高知新聞を退職した理由の一つとして昭和の南海地震が関連していたことを紹介している。以下、引用すると

深夜に発生した大地震に驚いたものの、揺れが収まった後に熟睡。翌朝、町の惨状を知ることになり、「ジャーナリストとしての反射神経が不的確と思ったぼくは上京し、もう一度デザイナーか漫画家への道に進みたいと思うようになりました」(「人生なんて夢だけど」より)。

なんとも、偉大な先輩である。
(「高知新聞プラス」に会員登録すると、月10本まで記事を閲覧できます🙇‍♂️)

できることは少ないけれど…

ともあれ、山北町での生活は始まったばかり。
できることは少ないけれど、高知県で鍛えられ、培ったものを生かしながら少しずつ前へ進んで行こうと思う。

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